『具体⇔抽象トレーニング』という本を読んだ。

『具体⇔抽象トレーニング』という本を読んだ。

本屋にふらっと立ち寄り、面白そうなのでなんとなく買ってみたが、これはなかなかためになりそうな本であった。

この本では、物事には具体的なレベルと抽象的なレベルがあり、それらは扱うものが異なる(多くの場合、相反する)ため、相手が今、抽象レベルの話をしているのか、具体レベルの話をしているのかを把握しなければ、抽象レベルの話に具体レベルで批判をしてしまい、または具体レベルで抽象レベルで批判をしてしまい、両者間には如何ともし難い溝ができてしまうという。

抽象というのは、大きな方針、大まかな切り取り、みたいな感じのニュアンス的な意味で、その解釈の幅はかなり広く、例えば、労働空間の管理職が、これからは業務の効率化を図っていきやす、と喚き立てるように、何をもって効率化というのかさっぱりわからないようなざっくりとしたもので、よって当該効率化の解釈は、労働時間を短くするという意味なのか、給与を上げるという意味なのか、最新の設備投資を行うという意味なのか、いかようにも解釈できる(自由度が高い)。

具体というのは、個別、詳細、特別、事細かい一つ一つ、みたいな感じのニュアンス的な意味で、その解釈の幅は極めて狭く、例えば、労働空間の管理職が、これからは業務効率化のために本日より1ヶ月後にこの部門の労働者を全員クビにしやす、と喚き立てた場合、それはもうそれ以外にしか解釈できない(自由度が低い)。

そして、末端の労働者が組織の全体像を見渡せないように、具体レベルどっぷりの視点からは抽象レベルは見えない

抽象というのは、多くの物事に適用できるような法則のようなもので、それはとてもシンプルであるが(例えば、諸行無常というのはこの世の森羅万象に適用できる最高峰の法則である)、具体は特定の物事の状況や状態で、その内実を細かく見ていこうとするときりがない(例えば、諸行無常の理に支配されているホモサピエンスの中の自称先進国日本の京都のどこどこに住んでいるマイナンバーという奴隷コード〇〇番の凡夫の腸内菌の中の二重螺旋構造の中のグアニン)。

抽象と具体はどちらが優れているのか、という疑問は不毛で、何かを抽象化できる能力(具体的な事例から何らかの法則や関係性を見つけ出す能力)、そして何かを具体化できる能力(見つけ出した法則や関係性を別の物事に当てはめて考えを進めていく能力)はどちらも大切なのだけれど、具体化も抽象化もままならない私のような愚鈍な凡夫は、物事には抽象のレベルと具体のレベルがあるのだということを心得ておくだけで、今後、人に対して寛容になれたり、物事を整理しやすくなる。

相手が大まかな話をしている時には、ほーん、きゃつは今、抽象レベルの話をしているわけだ、それを覆す具体例はいくつもあるが、あんなこともある、こんなこともある、だからダメ!と言い切ってしまうと、抽象VS具体になり不毛である、相手も種々様々な特殊な事象があることを承知の上でそれらを切り捨て、一般論、抽象論を述べているのだから、こっちはこっちで今思いついているいくつかの具体例から何らかの法則や関係性を抜き出し、その抽象をもって相手の抽象にぶつけるのが妥当かもしれない、とか、確かに抽象レベルにおいては相手の言う通りであるため、そだねー、と同意するか、とか、冷静に対処できるかもしれない。

相手が具体的な話をしている時は、ほーん、きゃつは今、具体レベルの話をしているわけだし、具体レベルの話をしたいわけだ、それを無視して、そんなもん知らねーよ、世間ではこうなんだよ、原則はこうなんだよ、というように個別具体的なことに対して抽象的な一般論でケリをつけようとすると、それは具体VS抽象となり不毛であるため、相手が具体で来たら、具体レベルの人は抽象レベルのことが見えず、具体のことしか見えない、ということを思い出し、こっちもネバギバの精神でジョン・レノン張りに想像力を働かせ、相手の具体的な視点に立つ努力をした上で、確かに具体個別的にはそだねー、と言い添えてあげられるようになるかもしれない。

こちらが何かを話す時も、これから私が申し上げ奉るのは抽象レベルの話です、とか、具体レベルの話ですと明示すれば、個別具体例を持ち出して揚げ足をとってくる凡夫たちや、漠然とした一般論や原則を叩きつけてくる凡夫たちを牽制できるかもしれない、と思ったが、それは期待のし過ぎであろうから、この本から得たものは相手の話の傾聴のために活かしていきたい。

P.S.

あっという間の黄金週間だ。

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