『サピエンス全史』の5つの幸福論について

『サピエンス全史』を再読した。

再読して気がついたが、私は脳髄ががらんどうであるため、書いてあることをほとんど覚えていないようである。

よって今回は、ほーん、と思ったところを忘れないようにノートに書き写しながら読み進めた。

『サピエンス全史』は我々凡夫の歴史の大まかな流れを教授してくれるだけに留まらず、我々の幸福についても考えさせてくれる。

当該書籍では我々凡夫の幸福を考える上での視座が複数提示されている。

1つ目は富による幸福

これは拝金主義者である我々凡夫にはわかりやすい幸福論で、金やモノといった富を多く持てば持つほど幸福であるというもので、だからこそわれわれはGDPを崇拝し、日々血眼になって金と時間を奪い合い、よくよく考えると欲しくもないし必要でもないないものを売ったり買ったりして生活しているのだけれど、しかしながら、この幸福論は事実であるらしい。

「富は実際に幸福をもたらす。だがそれは、一定の水準までで、それを越えると富はほとんど意味を持たなくなる。」

ということらしく、私は億万長者でもなんでもないが、自分に必要なものと欲しいものは一通り揃っており、これ以上それらを求めても虚無感を覚えるだけだろうな、ということはなんとなく想像できる。

2つ目は家族や所属集団による幸福で、これは緊密で親密で強力なコミュニティのことで、それらは富や健康以上に幸福感に大きな影響を及ぼすとのことだ。

これは無論、ただそこに所属しているだけではダメで、例えば私はかつて労働組合なるものに所属させられていたが、そのコミュニティは私にとっては緊密で親密なコミュニティでは全くなく、組合費に無駄に多額の親睦費を上乗せして徴収し、ガンバローガンバローと拳を虚空に突き上げるだけの謎の集団であり、よって私の幸福感は増すどころか低減さえしたのである。

3つ目は、自分の期待とその期待が叶っているかどうかによる幸福で、これは凡夫である自分が何を望んでいるか、というよりも何を望んでしまうかによると思うが、例えば、自己分析が番狂い、おいどんクラスの凡夫であれば月収8,000万円もらって当然、と宣う傲慢な凡夫がいたとして、しかしながら現実は月収1000円であったとすると、己の期待感と客観的条件の落差が尋常ではなく、きゃつは壮絶な不幸感にガクブルの日々を送ることになる。

ここでも私を例に出すと、私は世間を舐め腐り20代をフラフラプラプラブラブラと過ごし、ようやっと働こうかしらんと思った時には、これと言った実務的な能力や資格もなく、職歴もろくにない状態で、私ってどこにも雇ってもらえないのではないかしらん、雇ってもらえたらラッキーだよね☆、くらいの期待感しか持っておらず、その低い期待感のまま諸行無常の理によって今の会社で働くことになった。よって私は今、かつての自分の期待感以上の生活を送っているわけで、壮絶な不幸感にガクブルの日々を送っているわけではない。

しかしながら、この期待感というのは諸行無常の理によって自分の境遇に応じて膨らむこともあれば縮むこともある

今のおいどんの状況であればああであって当然、こうであって当然、周りもこうどす、ああどす、というように期待感をどんどんどんどん膨らませていってしまえば、それを実現できない状態が生まれやすくなり、それを実現できていない状態が目につきやすくなり、別にそれらを実現する必要は全く無いにもかかわらず、不満を抱きやすくなる。そうしてジーザス!と叫ぶだけの日々を送ってしまうことになる。

「預言者や詩人や哲学者は何千年も前に、持てるものに満足するほうが、欲しいものをより多く手に入れるよりもはるかに重要なことを見抜いていた。」

別に何かを期待すること自体は悪いことでないかもしれないが、今現在、自分は何を期待しているのか、何がどうなればいいなと思っているのか、この疑問を己にぶん投げ、しばし考える時間を設けたほうがいいのかもしれない。己の過度な期待が自分を苦しめているというのはよくある。しかしながら、どうしても生じてしまうこともあるその期待をどのようにすれば滅却することができるのかは私にはわからへん。

そして4つ目の幸福論は生化学システムによる幸福で、我々凡夫が幸福感を感じる時は特定のホルモンが分泌され、そのホルモンの種類とその濃度によって感じる幸福感が異なってくるらしく、この事実によれば、我々が富や緊密なコミュニティや期待の実現を望むのは、特定のホルモンの分泌を求めていることと同義になる。

そしてさらなる事実として、我々凡夫内の当該分泌物質は一定の水準を保つようにできているらしく、例えば、ビットコインが暴騰して成金モードになった時、ドーパミンが一気に放出され、その間は多幸感に包まれるが、しかしそれも諸行無常の理による束の間の現象に過ぎず、一定の時間が過ぎれば、体内、すなわち汚物の詰まった皮袋内のドーパミン濃度はビットコインが暴騰する前の水準に戻り、富は手中にあるにも関わらず、ドーパミンが足りないものだからどことない物足りなさを覚えてしまう。こういうことってあるよね。

そしてさらなる事実として、放出される当該分泌物質の放出のされやすさやその濃度は個々人によって異なるらしく、当該分泌物質が放出されやすく、その濃度が高めの人はちょっとしたことであっても大きな満足感や幸福感を覚えるが、当該分泌物質が放出されにくく、その濃度が低めの人は誰もがありがたがるようなことであっても不平不満が止まらなくなる。

これは生化学的な性質であるため、当該性質を後天的に練磨し、当該分泌物質を放出しやすくし、その濃度を高めることができるようになるのは難しいだろうなー、という予測が立つが、その予測を土台にし、その上に仁王立ちしてみると、生化学的な意味で、その人が幸福かどうかは先天的に決まっているということになる。

ここで愚鈍で頓馬な凡夫である私自身を振り返ってみると、野宿生活をしていたこともあることから、部屋については雨風が凌げる壁と天井があればOKであるし、白米・味噌汁・納豆をもって心から旨いと思える。ただし、汚物の詰まった皮袋である身体を隠すための衣服については、多少の虚栄心と今後のコストパフォーマンスを考え、幾分高めの衣服を買うこともあるが、必要以上に衣服を増やそうとは思わない。娯楽も読書や運動くらいで、私はささやかなことで案外満足できる性質かもしれない。

最後に5つ目の幸福論であるが、それはゴータマ・シッダールタ先輩の唱える幸福論なのだけれど、これは以上の4つの幸福論と一線を画す。

1つ目から4つ目の幸福論には共通点があり、それはどれも心地の良い感情を求めているということで、それはどれも心地の良い感情が幸福をもたらすという前提が共有されている。

富による心地の良い感情、緊密なコミュニティによる心地の良い感情、己の期待が実現されることによる心地の良い感情、生化学的物質による心地の良い感情。

我々凡夫は特定の心地の良い感情を追い求めて四苦八苦しているものの、そのような感情は諸行無常の理によりいずれは消え失せ、弱まっていく。

心は特定の心地の良い感情がすぐに消失してしまうことを恐れ、当該感情が持続し、より強まることを渇愛する。

ゴータマ・シッダールタ先輩によれば、この渇愛が苦しみの根源であり、よって幸福とは特定の感情を追い求めることではなく、この苦しみからの開放、つまり特定の感情を渇愛することからの開放を意味するという。

「特定の感情を渇愛するのをやめさえすれば、どんな感情もあるがままに受け入れられるようになる」

「自分の感情に重きを置くほど、私たちはそうした感情をいっそう強く渇愛するようになり、苦しみも増す。ブッダが教え諭したのは、外部の成果の追求のみならず、内なる感情の追求をやめることだった」

我々は感情に振り回されることが多々あるが、感情に振り回されない時も少しはある。

日々の奴隷労働中に理不尽なことに見舞われ、不快な感情が沸き起こり、それが激増してきて、相手を木っ端微塵にしたくなっても、その悪感情に気が付き、実際には相手を木っ端微塵にしない時が多々ある。

ということは、我々凡夫は仮に何らかの感情が沸き起こってきたとしても、その感情に反応しないことができるということであって、それは感情は自分自身とは別物であるという見方もできなくはない。なくなくなくはない。

心地の良い感情や不快な感情が沸き起こり、そんで消えていく、そんでまた沸き起こり、そんで消えていく、という無限ループが我々凡夫の内面では展開されているのだけれど、そんなんに逐一反応していてはきりがないぽよ、というのがゴータマ・シッダールタ先輩の教えの一つで、んじゃあどうすればそのような感情の無限ループに反応して振り回されないようになるのかというと、それは己を俯瞰できる能力、己を客観視できる能力を高める必要があり、んじゃあどうすればそのような能力を醸成することができるのかというと、瞑想だ。

瞑想と聞くと怪しげに思う人もいるかもしれないが、瞑想はいい。

瞑想についての詳細はここでは渇愛するが、瞑想はいい。気持ちがいい。

というように、煩悩まみれの私は、特定の感情に振り回されない己を作るための有効な手段である瞑想さえも快楽の手段として活用してしまっているわけだ。まじで業が深いぜ。

ということは私は今後も己の感情に翻弄され、特定の快楽感情を追い求め続けるという苦しみの刹那主義的な日々を送ることになるわけだ。まいったなー。

さらに、今後さらなる発展を遂げるであろうバイオ技術とIT技術によりもたらされる凡夫世界の大変革の只中で、私はただただ取り残され、無産階級ではなく無用階級としてホットサンドを食べたり食べなかったりして過ごすことになるわけだ。まいったなー。

この、まいったなー、に伴う不快な感情に翻弄されることなく、私はこれからブッダにもAIにも作れないホットサンドを作り、その味によって分泌される快楽物質やその味によって沸き起こる快楽感情に身を委ねようと思う。

以上です。

P.S.

本は再読を基本とした方がいいのかもしれない。

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