『消費社会の神話と構造』という本を読んだ。

『消費社会の神話と構造』という本を読んだ。

この本は國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』という本に出てきた本で、『暇と退屈の倫理学』があまりにも面白かったため、『消費社会の神話と構造』も読んでみようかしらん、と思い立ち読み始めたのだけれど、脳髄ががらんどうの私にとってはかなり難解であった。

よって、途中で他の本に目移りしたり、海外へ放浪したり、長時間労働労働特化型納税奴隷になったりしたため、読み始めてから読み終わるまで数年の月日を要してしまい、その間に諸行無常の理により私の脳髄も少しは怜悧になり、すいすいと読みすすめることができるようになっていれば良かったのだけれど、あいも変わらず私の脳髄はがらんどうであり、よって実に読むのに苦労した。

『消費社会の神話と構造』によれば、我々はモノの機能=使用価値を重視しているというよりはモノが象徴するもの=記号をひたすらに追い求めているが故に永遠に充足することがないという。

例えば、喉の乾きを解消するためには水を飲めば楽勝である。飲み物の機能=使用価値は水分の補給による健康の維持・回復にあるわけだ。

だがしかーし、我々煩悩まみれの凡夫は飲み物を「差異表示記号」として消費する。

おれは、きゃつらとは違う、なぜならタピオカを飲んでいるだ。

おれは、流行の最前線にいる、なぜならタピオカを飲んでいるからだ。

おれは、充実感の真っ只中にいる、なぜならタピオカを飲んでいるからだ。

みたいな感じのニュアンス的な塩梅で、己の地位や状態や所属層を顕示するための記号として飲み物を消費しているわけだ。

そんなことに現を抜かしていては永遠に満足は訪れない、なぜならば自分と他人との差異を表す記号は諸行無常の理によって変わり続けるからで、自己顕示欲のためにこれ見よがしにタピオカを飲む人間は、仮に豚の血が流行の象徴となった場合は、水を飲めばいいものを、豚の血を飲まなければ落ち着かなくなってしまう。

はは、私はそのような愚かな凡夫ではないぽよ、と思うのは別にかまわないのだけれど、著者のジャン・ボードリヤールに言わせれば、消費社会に生きる我々人間凡夫は常に他人との「差異表示記号」を求めて生きているらしい。

毎日忙しいぽよ、と言う凡夫も、毎日何もやっていないぽよ、と言う凡夫も、結局のところ、おいどんはきゃつらと違うどす、ということを言いたいし、わかって欲しいのだろう。

自分は他人とは違うということを顕示しなければならないという強制力がこの社会では働いているのだろうが、んじゃあどうすればいいのかというと、それはわからない。どうにかするべき問題なのかも定かではない。

そもそも自分と他人は違うということを示そうとすること自体が害悪なのかどうかもわからないが、まぁ、度合いの問題なんじゃないのかなー。

当該書籍の終盤部分には「疲労」についての分析があった。

我々人間凡夫は自分に合わない奴隷労働に従事すると疲労困憊する。

この種の疲労は、十分な睡眠や運動やチオビタをもってしても解消できる次元のものではない慢性疲労で、常に体調がすぐれない状態である。

先日読んだ「はじめてのスピノザ」によれば、それは己の活動能力を低下させている組み合わせであり、悪だ。

偏頭痛や不眠や鬱状態も慢性疲労の一種であり、それらの根本原因は同じで、ただ不調の現われ方の形式が異なるだけだ。

んじゃあ、その根本原因は何かというと、先述したように、自分との組み合わせの悪さである。

「疲労とは潜在的異議申し立てである」とボードリヤールが言うように、組み合わせが悪いために心身が革マル系の労働組合のごとく連帯し、ストライキを起こし、不調を引き起こしているわけである。

んじゃあ、悪い組み合わせをやめて、いい組み合わせを見つければいいのだけれど、それには時間がかかるし、さらに厄介なことに、我々人間凡夫はその慢性疲労さえも他人との差異表示記号として消費してしまう。

最近体がだるいぽよー、とこれみよがしに言う凡夫は、お前とは違って激務の労働に従事しているおいどん、ということを主張したいがために「慢性疲労」を記号として消費し、「慢性疲労」をもたらす労働をやめられないという事態に陥っている。

こうなると記号に自分が潰されるようなものである。

記号に自分が潰されないように、自分を少しでも俯瞰できるようになり、自分の言動が他人との差異を主張することに過度に集中しすぎていないかに注意を払う必要がある。

私は、万が一、いや億が一、いや兆が一、自分がタピオカを買う時、これを買うことで自分は何を実現しようとしているのかしらん、と自問し、自分がイケイケドンドンであることを見せびらかしたい、という度合いが過度に強ければ、バーローと己を叱りつけ、水道水をがぶ飲みしようと思う。

そして私は上記で「万が一、いや億が一、いや兆が一」と強調することによって、自分はタピオカを買うような凡夫ではないという差異化をしたわけであるが、差異化そのものに逐一反応していては身動きが取れなくなるので、やはりこれも度合いの問題なんだよね。

P.S.

モスバーガーはあまりうるさくなくていいわ。

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