『はじめてのスピノザ』という本を読んだ。

『はじめてのスピノザ』という本を読んだ。

この本は17世紀の哲学者スピノザの哲学を、脳髄ががらんどうの私のような凡夫のために、わかりやすく解説してくれると同時に、スピノザという哲学者の視点が独特であるが故にこれまでとは違う物事の見方を会得できる可能性を秘めている。

ものすごく面白かったので思わず2回連続で読んじゃったぜ。

その中でも印象深かったところの一つというのが、スピノザ先輩の善悪の考え方であーる。

この世には不完全なものはない。

あるものが不完全に思えるのは我々人間凡夫が、それについてああであるべき、こうであるべきなどと勝手に思い込み、その勝手な思い込み=幻想と照らし合わせて、それを完全・不完全と決めつけ、阿鼻叫喚しているだけだぽよ、よって物事それ自体はみんな完全だぽよ、みたいな感じらしい。

例えば、今日の自称先進国日本においては、拝金主義に基づく経済成長至上主義を掲げるカルト教団世間教の同調圧力により、一端の人間凡夫なるものは最低1日8時間×週5日労働に従事していなければあかへんど、そうでない凡夫は怠惰で不完全な凡夫である、という風潮が未だに優勢であるように思えるが、そんなものはカルト的な思い込みである。

カルト教団世間教はそのような勝手な思い込み=幻想によって人を完全・不完全と判断しているわけで、そのような幻想に基づく相対的な見方をしなければ、人間凡夫各個人、その人自体は至って完全である。

んじゃあ、そうなるとみんながみんな完全ということになり、善悪というものは存在しないのか、バーロー、とコナン風に思ってしまうが、スピノザ先輩曰く、善悪というのは相対的なものなんだよ、バーロー、という。

つまり、自分の活動能力を高めるものは善、自分の活動能力を低めるものは悪。

つまり、自分をいい感じにするものは善、自分を陰鬱な感じにするものは悪。

そして、何が善悪になるのかは人によって異なるし、同じものでも時期やその人の状態によっても異なってくる、つまり、善悪は個人にとっての組み合わせの問題、っつーわけっぽいぜ。

例えば、労働にしても、労働していたほうがいい感じの人もいるし、労働に従事すると鬱状態になる人もいる。前者の場合、労働は善であり、後者の場合、労働は悪である。

同じ労働でも、その労働内容や労働強度や労働時間や労働環境により、善にも悪にもなる。

労働そのものは善であるが、1日16時間労働はまじで無理、という人もいれば、1日16時間労働のほうが活き活きするという人もいるだろう。

つまり、人間凡夫のあり方はそれぞれ異なり、よって何が自分の活動能力を高め、何が自分の活動能力を低めるのかも人それぞれ異なるわけだ。

だからさ、人間凡夫は自分にとっての善を見つけるために、試行錯誤していこうよ、そうしようと、みたいな感じのニュアンス的なことをスピノザ先輩は言いたいのだろう。

この手の試行錯誤というのは、私がこのブローグで度々言及してきた教養(一人の時間を一人で充実させることができる能力)を身につけていこうとすることとどことなく関連してくると思われるが、それらがどう関連してくるのかを考えたり、書いたりするのはなんか面倒くさいので放棄するどす。

スピノザ先輩の「組み合わせとしての善悪」という考え方を身につければ、他人を画一的に判断することも少なくなり、カルト教団世間教の同調圧力に屈する機会も少なくなり、自分のあり方にも少しは自信を持てるのではないかと思う所存でござる。

スピノザ先輩と國分氏にまじで感謝。

P.S.

國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』という本もおもろいで。

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