幻想の新年と実際の自分

新年になった。

我々凡夫というのは面白いもので、よくよく考えれば特段の意味の違いもない暦の中において(暦は所詮、時間を便宜的に区切っているに過ぎない)、世間的に意味のある日と意味のない日を無理矢理に設け、その意味によって心理的な影響を少なからず受けている。

例えば「新年」というもので、本来であれば1月1日と6月21日というのはどちらも特筆するべき意味などないのであるが(それ故に、例えばアフリカのトムソンガゼルなんかは1月1日も水と草を求めて彷徨し、6月21日も水と草を求めて彷徨し、暦に何の意味も見出していない)、我々凡夫は1月1日に意味を見出し、普段とは違った行動パターンに出る。しかも集団的に。

と、このように偉そうな口を叩いている私もがっつりとその影響を受けている。

つまり、漠然とした世間が決めた漠然とした暦上の意味に翻弄され、漠然としゃきっとしちまっている。

このはごろもフーズ並みのしゃきっと感が何をもたらすかと言えば、去年を振り返り、今年の目標を立てたくなったり、古いものを放擲させて新しいものに買い替えたくなったりといった衝動で、この手の物欲はしゃきっと感によりもたらされ、しゃきっと感により正当化される。

例えば、今年はキャンプやったるどー、つーことはまずはキャンプ場に行くためにフォレスターを買わなければならん、フォレスターがなぜ必要なのか、それは今年の目標がキャンプをやることだからであーる、みたいな感じで。

この衝動をビジネスチャーンスと捉え、絶対にこの好機を逃さへんどと神社仏閣関係者はわけのわからない宗教儀式を催し(少なくともゴータマシッダールタ先輩がその光景を見たら、何やっちゃっての?と言うだろう)、企業家たちはバーゲンセールを企画する。

と、このように偉そうな口を叩いている私も上記の自称エリートたちの権謀術数にがっつりとかかり、しゃきっとした気持ちの勢いのままに「祝!新年特大セール」みたいな感じのニュアンス的な雰囲気っぽい塩梅の消費主義的な祭りに嬉々として参加し、ランニングシューズやPCを新調した。

ランニングシューズもPCもかなり安くなっていて、ほんと良かったなー。

私の今年の目標は特になく、強いて言えば、家事、労働、運動、読書、ブログを淡々とやっていくのみで、当該目標の運動とブログの手段として今回のランニングシューズとPCの購入は正当化されたわけだ。

その他の凡夫たちはどのような正当化をもってどのようなものを購入しているのかしらん。

P.S.

あけましておめでとうございます。

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