感性を磨くためにシシトウとバターを買いに行く。

『武器としての「資本論」』という本を読んだ。

この本の著者、白井聡氏については何も知らなかったのだけれど、読み終えて調べてみると、ネット上では左翼だの、マルクス主義だのと叩かれていたが、そのような言説はどうでもいいとして、この本は僕らが現在進行形で身柄を置いている資本主義というシステムの一面を理解するためにマルクスの資本論を勧めており、なるほどなー、労働者はこうやって生まれてきて、こうやって搾取されているのかー、とそれが絶対的に正しい見方ではないかもしれないが、脳髄ががらんどうの凡夫にとっては勉強になる。

僕はマルクスの『資本論』は読んだことがないけれど、その簡易版みたいな感じの著作である『賃労働と資本/賃金・価格・利潤』という本は読んだことがあり、その内容はほとんど忘れたが、その本の中に「労働のためでもなく、家事や育児のためでもなく、睡眠や食事のための時間でもない自由な時間がない状態は家畜以下ではないか」みたいな感じのニュアンス的なことが書かれていて、本当にその通りだよなー、と当時ニートだった僕は感銘を受けた記憶がある。

マルクスには革命家と経済学者という二つの側面があり、僕は社会主義革命や共産主義革命を扇動するきゃつの一面は評価しないが、資本主義の本質を批判的に見極めようとするきゃつの一面からは学べることが多いと思う。

んじゃあ、てめーはきゃつから具体的に何を学んだのかい?と詰問された場合、思考の停止した長時間労働特化型納税奴隷の僕は、わっからへーん、と回答するしかないのだけれど、それだと世間の他の長時間労働特化型納税奴隷たちに申し訳が立たないため、少なくとも『武器としての「資本論」』を読み進めていく中で、僕がほほーんと思った箇所を以下に紹介しよう。

それがこれ。

新自由主義、ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という考え方です。人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値や必ずしもカネにならない価値というものをまったく認めない。だから、人間を資本に奉仕する道具としか見ていない。

白井聡『武器としての「資本論」』(東洋経済新報社)

これは要するに、カネにならないものは全て無価値、という価値観で、この価値観に魂をハックされ、ファックされると、この世の全てを金銭に置き換えてその価値を測るようになってしまい、稼いでいる金の多寡や所有物の金銭的価値で人のことを見てしまい、その見方は自分にさえも適用され、自分を金銭的価値という軸のみで肯定したり否定したりしてしまい、稼いでいない自分、高級車や高級時計等の地位財を持っていない自分を肯定できず、生きづらさを常時感じてしまうという事態に陥ってしまう。

昨今はこのような価値観の浸透によって自分を肯定しにくくなっているが故に精神疾患に苦しむ凡夫の数が増えているのかもしれへんのー。

このように資本主義が進化し深化していくと、何もかもが金銭中心主義的になっていき、著者の言葉を借りると、「人間の思考・感性に至るまでの全存在の資本のもとへの実質的包摂」が起こり、なんだか気持ち悪い。

んじゃあどうすればいいのか。

著者は、感性を再建せよ、と言っているのだけれど、これは言い換えれば、贅沢を享受せよ、と言っているのだけれど、ここで言う贅沢は必ずしも多額の金銭を必要とする類の贅沢ではなく、つまり、大枚をはたいてフォアグラを食い漁るという類の贅沢ではなく、その辺の野原から美味なものを探し出して来て、創意工夫を凝らして調理し、その料理を大いに嗜む、といった感じのニュアンス的な類の贅沢のことで、いやー、これほんっとおいしいなー、としみじみ思えるあの感じ、いやー、ほんっと良い時間だわー、とつくづく思えるあの感じ、その種の贅沢に敏感なれよ、と言っている。

感性を再建し、その種の贅沢に敏感になると、逆にその種の贅沢を享受できない状態にも敏感になる。

例えば、これまでであれば、畑で採れた新鮮なシシトウをバター醤油で炒めてビールで一杯やるあの時間がたまらなかったのにも関わらず、最近は畑を耕す時間もなく、故にシシトウは枯れ果て、バターを買うお金もなく、ファミチキをあてに氷結を飲むだけの日々になってしまっている。このような凡夫がいたとする。

ここで感性が培われた凡夫は、おれは清貧主義なんだという自己欺瞞に甘んじることなく、なんでおれはファミチキと氷結で満足させられているんどすか、いつの間におれはこれほどまでに貧しくなってしまったのでやんすか、と京風あるいは下僕風に少なくとも考え始める。

その結果、もうやってられへんど、これは全て資本家による搾取のせいや、絶対許さへんど、こうなったら共産主義革命や、やったるどー、と意気込む人もいるだろうが、それは極少数派だとして、感性をそれなりに培った凡夫の多くは資本主義社会に生きつつも、その価値観一色には染まらず、金銭的価値とは無関係の価値を謳歌できるようになるのだろう。

感性の再建。

どうすれば感性、フォアグラ的な感性ではなく、シシトウのバター醤油炒め的な感性は獲得できるのだろうか。

これは、比喩的な説明になるが、実際にシシトウのバター醤油炒めを食べてみて、その美味さを痛感するしかないと思うが、そもそも感性のない人間は「シシトウのバター醤油炒め」というアイデアそのものが思い浮かんでこず、「ファミチキ」で脳髄が一杯になる。

であれば、その辺の凡夫にその人なりの贅沢を尋ね、ピンときたものから手当たり次第に試してみるくらいしか方法はないのかもしれないが、ピンとくることそれ自体も感性がなければどうしようもないわけだ。

ここで昨日の自分を振り返ってみると、昨日の昼食はファミマで購入したカップヌードルとドーナツであった。

僕はそれをうまいうまいと食していた。

ということは、おれもうダメやん、ずっと貧相な感性なままやん、という絶望的な結論に達してしまったのだけれど、その現実からはひとまず目を逸らすことにして、ここはとりあえずロックンロールかつネバギバの精神でシシトウとバターを買いに行ってみようということになった。

以上です。

P.S.

最近寒いですね。

タイトルとURLをコピーしました