教養がないと働くだけの人生になってしまう

先日、退職された元嘱託職員の方と飲む機会があった。

その方は、誰もが知っているであろう大企業の役員として定年まで勤めあげ、僕が納税労働に従事している会社で嘱託職員として働き始め、契約期間満了ということで昨年退職された。

退職してからしばらくは飲み歩いたり、サイクリングを始めたりと楽しそうに過ごしていたみたいなのだけれど、本人としてはやはりどうにもしっくりこなかったらしい。

毎日飲み歩くのも飽きるし、そもそも一緒に飲み歩いてくれる相手もいない。自転車を毎日長距離間楽しめるほどの体力もない。話し相手は奥さんだけで、これといった話すネタもない。

時間も金も十二分にあるが、どう使えば自分が充実感を覚えるのかがわっからへん。

その方の実情はこのような状態であったらしく、先日お会いした時に話を聞いてみると、再び働き始めたそうである。

その働きぶりは週5日間のほとんどフルタイム労働で、その活力には敬意を表するしかなく、その方が充実しているのであれば別に構わないのであるが、これは見方を変えると、僕が喫緊の課題として恐れ戦いている教養のない人間の末路でもあるのであーる。

ここでいう教養というのは「一人の時間を一人で充実させることのできる能力」のことを指すのだけれど、この種の教養がない人間は時間も金も持て余してしまい、退屈に苛まれ、居たたまれなくなり、散財か不要な納税奴隷労働という運命を辿ることになる。

例の元役員の方も、僕が納税奴隷に従事している会社を退職される前は、映画を見まっくたるどー、と息巻いていたのだけれど、実際に映画はどれだけ見られたんでげすか、と僕が尋ねてみると、映画なんて何本も見てられへん、作品同士が錯綜してどの映画を見とんのかわからんようなるさかい、一本も見てへんでやんす、というご名答を頂き、やはりこれまでの納税奴隷労働生活が染み付いた状態で急遽膨大な自由な時間に対処しなければいけなくなると、教養がなければ一瞬にしてどん詰まってしまうんだなー、と再認識させられた。

結局、件の役員凡夫は教養がないが故に納税奴隷労働に手を出し、そこでストレスを溜め込み、僕らのような人間と飲み歩くことで憂さを晴らすという、奴隷労働と気晴らしの無限ループに嵌まりこんでいる。

納税奴隷労働の担い手として文科省から洗脳教育を受けた直後の若手の凡夫の多くは、当然の結果として納税奴隷労働に従事し、奴隷労働と気晴らし間を反復横飛びしまくるが、その納税奴隷たちの一部は何らかの違和感を覚え、蓄財や投資や副業をもってして奴隷労働と気晴らしの無限ループから抜け出そうと試みる。

そして一部の凡夫たちは無事に奴隷労働と気晴らしの無限ループから抜け出すことになるわけなのだけれど、諸行無常の理が支配するこの複雑怪奇な世界においては、上記の元役員の凡夫の例が示すように、ただ自由に使える時間とお金があるだけでは不十分で、自分の充実感のためにその自由に使える時間とお金を使いこなす能力、つまりは教養が必要になってくる。

上記の元役員凡夫の場合、きゃつは自分を充実させるためにはやっぱり労働でやんすな、と悟り、その結果労働に従事し、日々が充実している、よってきゃつには教養がある、という見方もできなくはないが、きゃつはどこか不満気であった。

それはやはり当該労働が、退屈だから働くかー、という消極的動機によるものだかだと思われる。

気晴らしとしての労働もありうるが、労働は基本的に雇われ労働であり、よって他人に依存的であり、よって諸行無常の理によって突如として解雇されることもあれば、年齢によっては門前払いされることも十分にあり得るわけで(実際に例の元役員の方は単純作業のアルバイトさえも年齢により断られたという)、超高齢になり、労働という選択肢が壊滅してもなお時間があるという状態の時、教養がない人間は再び時間を持て余すことになり、退屈に喘ぎ、そうして時間だけは刻々と過ぎていき、糞尿に埋もれて死んでいく。

労働からのみ活力を得てこれまで元気に生きてきた人が、労働を奪われた途端に意気消沈する姿を何度かみてきた。きゃつらは労働を得るとかつてほどではないにしても再び活力を取り戻すが、労働依存体質はやはり脆い

なんて偉そうなことを嘯いているが、んじゃあ、君にはその教養とやらがあるのかい、と近代日本文学風に聞かれた場合、僕はきっぱりと、ないどす、と京風に答えることになるだろう。

教養の体得は一朝一夕ではどうにもならない。

んー、どうやって身につけていくものなのかしらん。

と、いくら考えて全然わからないので、筋トレでもして散歩に行こう。

P.S.

もう秋ですね。

タイトルとURLをコピーしました