係員と本

『中動態の世界』――凡夫の思い描く自由は自由ではないかもしれない

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僕が好きな哲学者に國分功一郎さんという方がいるのだけれど、ニート時代に暇を持て余していた時に國分さんの『暇と退屈の倫理学』という本を読んでものすごく面白かったため、國分さんの別の著作である『中動態の世界』という本を読み始めたのだけれど、気の向くままに読んでいると、読み終わるまでに一年ほどかかってしまった。

その本がどういう内容の本なのか、ということをこの場でまとめ上げられるほどに僕の言語処理能力は高くないし、仮にそういった雑な要約文でその作品を読んだ気になられでもしたら、著者の國分さんに申し訳ないと思うと同時に、原著と向き合っているときの充実感をみすみす逃してしまうことになり、快楽主義的な観点からそれほどもったいないことはないと思われるため、本の概要紹介みたいな感じのニュアンス的なことは割愛させてもらうのだけれど、『中動態の世界』の中で僕個人がおもろいのー、と思った部分を一つだけ紹介したい。

そして、その一つを紹介するために原文から散発的に引用してみたい。

自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である

自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば、自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。自分はどのような場合にどのように変状するのか? その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。

自由と対立するのは、必然性ではなく強制である。

自らの有する必然的な法則を踏みにじられているときに強制の状態に陥る。

以上は國分さんの言葉であったり、スピノザの言葉であったりするのだけれど、ここでは思考の停止した我々凡夫が安易に思い描く一般的な「自由」とは違う自由の意味が提示されている。

我々凡夫は自由というのは「何をしてもいいし、何もしなくてもいい状態」みたいな感じのニュアンス的な意味のものと見なしてしまいがちで、自由の意味っつうのはそういった感じのニュアンス的なもの違いねぇと短絡的に判断し、「何をしてもいいし、何もしなくてもいい状態」を阻害していると思われるもの、例えば労働であったり家事であったり勉学であったりを悪であると断罪し、労働者、専業主婦、専業主夫、学生等を不自由な不具者として蔑視する輩もいるかもしれないが、見方を一変させて、自由人というものが「自己の本性の必然性に基づいて行為する者」であるとするならば、一見労働や家事や勉学に多大なる時間を費やし何かに縛られて不自由にみえる人間も、己の必然的な法則に従い、自由を謳歌しているかもしれへんのー、と考えることができる。

どうしてもこうしてしまう、これをしないことにはなんか落ち着かへん、こうすればしっくりくる、みたいな感じのニュアンス的なことが「自らを貫く必然的な法則」の意味だと思うのだけれど、仮にその法則が「一日20時間労働していないと落ち着かへんど」という人がいたとすると、その人が一日20時間労働を実現している時は、己を貫く必然的な法則に従っているわけで、そういう意味でその人は自由で充実しているだろうし、同じ人が何らかの事情でニート状態を余儀なくされ、一日20時間労働が実現されないとなれば、「己を貫く必然的な法則を踏みにじられている状態」、すなわち「強制」されている状態であるため、労働以外のものに対してならば随意に時間を費やしても構わないという状態であっても、その人は自由ではないということになる。

僕の本の読み方が間違っているかもしれないが、僕は上記のような解釈をして、おもろいなー、と思った。

自分を貫く必然的な法則。この法則のあり方は一人一人異なるだろうし、この世の絶対的な真理である諸行無常の力によって変わり続けるもので、だからこそ自由のあり方というのは一人一人異なるということになる。

自分で自分の法則を正確に認知できればできるほど、その分、自由の実現への道筋が明確になり、自由を実現しやすくなるのだけれど、自分で自分の法則を認知するには行動を伴う膨大な試行錯誤量と内省力が必要となるのではないかしらん。

試しにここで僕自身の「自分を貫く必然的な法則」って何かしらん、と考えてみたのだけれど、腹が減ったのでレトルトカレーを食おう、という雑念しか得られるものがない。

このような有様なので、僕に自由の実現はない。

とにもかくにも、カレーを食おう。

P.S.

今日の一曲。

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